人が境界線を越えて立ち上がるとき、
その奥にはたいてい、これ以上は失いたくないものがあります。
それは、必ずしも「自分のため」だけで動くわけではありません。
ある人は、家族を守るために動く。
ある人は、自分の尊厳を踏みにじられたときに動く
ある人は、弱い立場の人が傷つけられるのを見て動く。
ある人は、秩序が壊れることに耐えられず動く。
ある人は、未来の可能性が閉ざされることに怒って動く。
ある人は、「本来あるはずの美しさ」が損なわれたときに立ち上がる。
つまり、人を動かすものは、その人が何を「命と等しく大切」と感じているかによって違います。
境界線を越える力は、単なる勢いや勇気ではありません。
普段は、
「傷つきたくない」
「失敗したくない」
「嫌われたくない」
「面倒を起こしたくない」
という防御意識が、人の衝動を内側に留めています。
けれど、その防御よりも大切なものが現れたとき、
守るために、守りを破る、
という逆転が起きます。
自分を守るための膜(境界線/水星・土星)を越えて、誰かに手を伸ばす。
安全圏から出て、声を上げる。
疲れていても、立ち上がる。
人は、境界線(膜/水星・土星)を失ったから動くのではなく、
より大きな境界を守ろうとするときに動くのだと思います。
自分一人の境界から、
家族の境界へ。
仲間の境界へ。
地域の境界へ。
社会の境界へ。
未来の命の境界へ。
守る範囲が広がるほど、利他の力に見えてきます。
ただし、利他には二つあります。
一つは、恐れからの利他です。
「私がやらなければ」
「見捨ててはいけない」
「役に立たなければ価値がない」
という、自己犠牲に近い動きです。
もう一つは、生命力からの利他です。
「これは守りたい」
「この人に生きていてほしい」
「この未来を残したい」
「私はここに力を使いたい」
という、自分の意思を伴った動きです。
前者は、燃え尽きやすい。
後者は、燃えながら自分自身も生かされます。
人が本当に生きていると実感するのは、単に強い感情が起きたときではなく、
自分の力が、自分の大切なものと結びついたとき、なのかもしれません。
エニアグラム的に見ても、突き動かされるものは違います。
タイプ1は、正しさや秩序が壊されたとき。
タイプ2は、大切な人が孤立し、助けを必要としているとき。
タイプ3は、可能性や努力が無駄にされそうなとき。
タイプ4は、その人らしさや真実が消されそうなとき。
タイプ5は、知識や理解が軽視され、無知による損失が起きるとき。
タイプ6は、仲間や安全が脅かされたとき。
タイプ7は、自由や希望、未来の選択肢が閉ざされるとき。
タイプ8は、弱い者が理不尽な力に踏みにじられたとき。
タイプ9は、人と人とのつながりや平和が壊されるとき。
けれど、その人の反射や身体の状態によっては、守りたいものがあっても動けません。
頭では「立ち上がりたい」と思っていても、
身体が固まる。
声が出ない。
状況を整理できない。
自分の怒りに気づけない。
相手と自分を分けられない。
そういうこともあります。
だから、動けないことは、信念や愛が弱いわけではありません。
守りたいものはある。けれど、身体がまだその力を使える状態ではない。
ということもある。
反対に、身体に少し余裕が生まれると、これまで我慢していた人が急に怒りを感じたり、断れるようになったり、誰かを守るために声を上げられるようになることがあります。
それは性格が変わったのではなく、もともとあった生命の意思が、動けるようになったのだと思います。
人を突き動かすものを探すときは、「何をしたいか」だけではなく、
何を失うことに、私は耐えられないのかを見ると、その人の火種が見つかります。
そして、もう一つ。
「何が守られたとき、私は心から安堵するのか。」
そこには、その人が未来へ残したい世界が表れています。
